石田供養塔以外にも石田町には見どころがある。
石田町は、かつての横山城跡の南西麓にある。つまり姉川の合戦の最前線だったわけだ。
当時十歳の三成は、ここから東に離れた観音寺に坊主として預けられていたという。
父の正継や兄の正澄、家臣領民たちはいかなる思いで姉川の合戦に臨んだのだろう。
そんな妄想にふけりながら、日吉神社がある南麓から横山城へと登ろうとした。
五分後、次々と襲い来る浅井軍ならぬヤブ蚊の猛攻に負けて登頂は断念。
信長や秀吉、諸侯たちも蚊に悩まされたのだろうか。
建立時期はわからなかったが、後に豊臣秀吉の出世の基盤となった横山城跡に日吉神社。
途中見かけた看板に「サルにご注意」とあった。太閤さんの城下町も今は昔。
帰り道、幹線道路沿いにレトロな建物を発見。近江ベルベット社の工場とのことだが、実にモダン。
元来近江は絹上布の産地であったが、様々な様式で継承されていると思うと胸が熱い。
町の中心に戻って、ここは徳明寺という真宗大谷派のお寺である。
近江は元々本願寺門徒が多い。その関係か、本堂の大きさも下手な城の天守や御殿ほどはある。
破風や懸魚という、屋根の側面の飾りもとにかく大きい。
元亀年間の開基らしいが、織田~浅井の最前線で石山本願寺の寺院があったとは恐るべし…。
この本堂では、石田供養塔が発掘された年にあの吉川英治氏が石田三成の座談会を開かれたという。
その際に吉川氏の俳句が、石田会館の石碑として残されている。
様々な時代において、石田三成が語り継がれ、愛されてきたのだと思うとなにか不思議な気分になる。
太平洋戦争開戦の年。不安に満ちる世相の中で、こうした催しが行われていた事。
蝉しぐれ、とはいかないが蝉の声の響くこの風景を三成以前、三成以降の幾人が耳にしたろうか。
地元住民の方に聞くと、一週間ほど前に大河ドラマ「江」に出演中の萩原聖人氏が訪れたらしい。
三成を好演?中の氏だが、四ヶ月の大河でどこまで三成と一体化出来るのか…大まくりを期待したい。(2011年8月1日取材)
ところで町角では、このような武将の名を刻んだプレートをあちこちで見かけた。
なんでも町内に十二箇所あるらしいが、場所を記したマップは石田会館の中らしい。
日も暮れかけていたので引き返したが、今度行くときは全てをチェックしたいところである。
藩から県、村から町、郡から市、等と世の変化の中で、石田という地名は守られて来た。
地名も大事なもので、ここが”石田”でなければ、三成達は又異なる姓を名乗っていたかも知れない。
願わくば、末永く石田の地名が残らんことを願いつつ―また秋に散策に来たい。