朱漆塗燻韋威縫延腰取二枚胴具足
井伊直孝は、江戸260年間の幕政の基礎と、徳川家筆頭としての井伊家を形作った人である。
本来は井伊直政の庶子として、父の死後は二代将軍徳川秀忠の幕臣として側に仕えた。
後に徳川家康より兄:直継に代わり彦根藩主に任命。七十歳でこの世を去るまで家康・秀忠・家光・家綱の四代に仕えた。
今回の企画展には展示されなかったが、父直政のものとも、または直孝のものとも言われる赤備えがある。
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彦根城博物館)
この直孝の甲冑は、そのデザインを引き継ぎつつ烈勢頬(れっせいほお)と呼ばれる面により印象を引き立たせている。
実はこの甲冑は、実戦で使われた形跡がないとされる。
たまに大坂冬・夏の陣で井伊直孝が着用した―とも言われるが、実際には他の鎧であり、現在は大阪府内のある神社に奉納されているという。
父・直政の甲冑が実戦仕様として威糸(おどしいと)を胴に殆ど用いなかったのに対し、直孝の甲冑には萌黄色の装飾がなされている。
また、現存する藩主の甲冑の中では唯一籠手の防具が筒状になっている。これもまた直孝公の甲冑のイメージを異なったものにしている。
彦根城博物館の展示ケースには、普段から藩主の甲冑を展示する専門のケースがある。直孝の甲冑はここに展示されていた。
そのため、背後や側面をよく見ることが出来るのだが、甲冑の背中の部分も見ることが出来る。
後の藩主達の甲冑には旗を立てるための受筒等のパーツがつくが、この甲冑には見られない。
藩主が旗を背負うのは当然敵味方へのアピールの意味もあるが、この甲冑にないのは実戦を意識したものだと思う(それだけ敵にも狙われる)
まだ井伊の赤備えが形式化される過渡期の一品として、一見イレギュラーにも思えるデザイン。
後の藩主達は他の甲冑のデザインを踏襲したのは、単に藩祖直政への憧れか、それとも―興味は尽きない。
もしくは後世、本来のパーツとは異なる組み合わせが、この甲冑に行われたのではないか?と思える。
井伊直孝という人は有名な豪徳寺の招き猫の逸話で知られるが、政治では父・直政ほどでないにせよ厳しい判断を下した話も少なくない。
だが、非情な面が多く見られた直政と異なり、直孝は根底では人情家とも取れるエピソードは数多い。
しかし、兄・直勝(旧名直継)との当主交代や、嫡男直滋の廃嫡といった家族関係の影は多い。
後世、井伊直孝の治世は歴代藩主達の基本となり、井伊家当主が幕政混乱時には大老になるという慣習も直孝の時代に生まれた。
そんな直孝は、彦根藩にとっては勇猛かつ強靭な「赤鬼」として語り継がれねばならなかった―その為、他の藩主が(一名を除き)用いなかった烈勢頬が後に付け足されたのではないか?などと勝手に想像している。
そんな井伊直孝の甲冑は、井伊の赤備えを代表する一品として彦根市の指定文化財に選ばれている。また、甲冑の専門誌や行政広報にもその姿をよく見受ける。
また、幕府筆頭の家柄であったことから映像作では「武家社会の象徴」として姿を見せることもある。映画「切腹」やリメイク作品「一命」でもその姿が出てきた。
写真は「一命」で使用された井伊の赤備えのレプリカである。映画での見栄えを意識してか少し黒ずんだ赤である。
兜についた白の毛髪は唐の頭と言われたヤクの毛を束ねたもので、各国の大名に幕府から与えられたものである。
前立の橘紋は実際の赤備えには見受けられないが、後の藩主の甲冑にも前立てをつけた例はいくつかある。(菖蒲・御幣などの立物ではあるが)
戦国最期の大合戦ともされる大坂の陣と泰平の世との狭間で生み出された井伊直孝の赤備え。
直孝の赤備えは故人の偉業と共に、明治維新まで彦根城天守で眠る事になる。