井伊の赤備え[5](彦根市金亀町・彦根城博物館)

八木本宗平

2011年09月26日 23:07

彦根城博物館テーマ展 シリーズ 戦国 巻の4 「井伊の赤備え-朱と金の勇姿-」(リンク先:彦根城博物館当該Webページ)
既に展示自体は終了しましたが、手持ちの写真からテーマ展の様子をお伝えしようと思います。

今回は井伊直政・井伊直孝に仕えた豪傑、八田金十郎(はったきんじゅうろう)の甲冑。


朱漆塗紺糸威龍蒔絵仏二枚胴具足(しゅうるしぬりこんいとおどしりゅうまきえほとけにまいどうぐそく)

井伊の赤備えのにありがちなシンプルな具足だが、龍の蒔絵を胴に施し、各所に突進するイノシシが描かれているこの甲冑。少し甲冑を調べていれば、所有者は余程の派手好きか、余程の武勇の持ち主かと想像できる。
赤備えとは、元々赤という色そのものが目立つ要素である。その上でこれだけの装飾を施したのは、金十郎自身がずば抜けて槍働きに功績のある男だからこそできたことであろう。


若江堤合戦図(彦根城博物館所蔵・三隻のうち二席目)

八田金十郎がその名を轟かせたのは、大坂夏の陣の若江の戦いに他ならない。彼は木村重成の軍勢に一番槍を仕掛け、その勢いで重成の妹婿・山口左馬助弘定と弓頭・飯塚太郎左衛門を討ち取っている。この時に金十郎が受けた槍傷は21にも及んだという。あわや討死というところを同じ井伊家家臣の戸塚左大夫達に救われたという。


金十郎はその抜群の功績を徳川家康より直々に讃えられ、黄金と馬、そして家康に頭に手を添えて手柄を称されたという。ここの功績に主君・井伊直孝は金十郎に都合五百石(現在でいう年俸500万か)を与えた。名実ともに金十郎は井伊家の豪傑となった。

これだけの武勇伝を聞けば、金十郎の甲冑の派手さは、これ以上無い自身の武功や気性をアピールするものであるとわかる。経年劣化のためか、所々漆や蒔絵が剥がれかけてきているものの歴史や風格を示している。

なお、その功績が後年金十郎に思わぬ事件を引き起こすこととなるが、それは又別の機会で。


この甲冑、奉納されたのか現在は井伊神社の所蔵となっている。

直孝の孫に当たる井伊直興の時代、彦根藩士七十六士が徒党を組み、直興に借金を申し込んだところ勘気に触れ彦根を追放されるという事件があった。この中に八田金十郎の子孫も含まれており、20年後に帰参の許しが出るもついに彦根に戻ることなく亡くなったという。
その後も子孫は代々井伊家に仕えたが、武勇の時代から諸役算学の知識を求められる時代に八田金十郎の名が再び響き渡ることはなかった。ただ一人、歴史の中に生き続けた初代金十郎を除いて。


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