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Posted by 滋賀咲くブログ at

井伊の赤備え[6](彦根市金亀町・彦根城博物館)

2011年11月04日

彦根城博物館テーマ展 シリーズ 戦国 巻の4 「井伊の赤備え-朱と金の勇姿-」(リンク先:彦根城博物館当該Webページ)
既に展示自体は終了しましたが、手持ちの写真からテーマ展の様子をお伝えしようと思います。

今回は井伊家に歴代廃藩まで馬医として仕えた古沢六右衛門(ふるさわろくえもん)家に伝わる甲冑。


朱漆塗紺糸威五枚胴具足(しゅうるしぬりこんいとおどしごまいどうぐそく)

五枚胴というと伊達政宗の甲冑(仙台胴・雪の下胴)でお馴染みだが、江戸時代中期になる頃には全国各地の大名・武将が所有する例が多く見られる。


伊達政宗の五枚胴は鉄板を一枚一枚鍛えたものだが。この五枚胴は縦剥胴(たてはぎどう)という、鉄の板を矧ぎ合わせて胴を形成している。よく見ると道にボーダーがあるのがお解りになると思う。
古沢家六右衛門家は代々120石取の家柄だ。現在の貨幣価値で言うと年俸600万円位と想像して欲しい。そのためか、甲冑もシンプルながらなかなか趣がある。


古沢六右衛門家は、幕末の彦根藩と時の大老・井伊直弼を支えた重臣、宇津木六之丞を輩出した家でもある。四男坊のため実家は継げなかった六之丞だったが、直亮・直弼の二人の藩主を補佐し幕末の世を奔走した。
六之丞に関しては改めて記事を書く予定だが、もし彼の兄達が家督を継げなかった時、この甲冑を彼が纏ったのだろうかと思うと感慨深い。後に六之丞が所蔵した甲冑の簡素な中の威厳もここから来ているのだろうか。



Posted by 八木本宗平 at 23:29 Comments( 0 ) 井伊の赤備え

井伊の赤備え[5](彦根市金亀町・彦根城博物館)

2011年09月26日

彦根城博物館テーマ展 シリーズ 戦国 巻の4 「井伊の赤備え-朱と金の勇姿-」(リンク先:彦根城博物館当該Webページ)
既に展示自体は終了しましたが、手持ちの写真からテーマ展の様子をお伝えしようと思います。

今回は井伊直政・井伊直孝に仕えた豪傑、八田金十郎(はったきんじゅうろう)の甲冑。


朱漆塗紺糸威龍蒔絵仏二枚胴具足(しゅうるしぬりこんいとおどしりゅうまきえほとけにまいどうぐそく)

井伊の赤備えのにありがちなシンプルな具足だが、龍の蒔絵を胴に施し、各所に突進するイノシシが描かれているこの甲冑。少し甲冑を調べていれば、所有者は余程の派手好きか、余程の武勇の持ち主かと想像できる。
赤備えとは、元々赤という色そのものが目立つ要素である。その上でこれだけの装飾を施したのは、金十郎自身がずば抜けて槍働きに功績のある男だからこそできたことであろう。


若江堤合戦図(彦根城博物館所蔵・三隻のうち二席目)

八田金十郎がその名を轟かせたのは、大坂夏の陣の若江の戦いに他ならない。彼は木村重成の軍勢に一番槍を仕掛け、その勢いで重成の妹婿・山口左馬助弘定と弓頭・飯塚太郎左衛門を討ち取っている。この時に金十郎が受けた槍傷は21にも及んだという。あわや討死というところを同じ井伊家家臣の戸塚左大夫達に救われたという。


金十郎はその抜群の功績を徳川家康より直々に讃えられ、黄金と馬、そして家康に頭に手を添えて手柄を称されたという。ここの功績に主君・井伊直孝は金十郎に都合五百石(現在でいう年俸500万か)を与えた。名実ともに金十郎は井伊家の豪傑となった。

これだけの武勇伝を聞けば、金十郎の甲冑の派手さは、これ以上無い自身の武功や気性をアピールするものであるとわかる。経年劣化のためか、所々漆や蒔絵が剥がれかけてきているものの歴史や風格を示している。

なお、その功績が後年金十郎に思わぬ事件を引き起こすこととなるが、それは又別の機会で。


この甲冑、奉納されたのか現在は井伊神社の所蔵となっている。

直孝の孫に当たる井伊直興の時代、彦根藩士七十六士が徒党を組み、直興に借金を申し込んだところ勘気に触れ彦根を追放されるという事件があった。この中に八田金十郎の子孫も含まれており、20年後に帰参の許しが出るもついに彦根に戻ることなく亡くなったという。
その後も子孫は代々井伊家に仕えたが、武勇の時代から諸役算学の知識を求められる時代に八田金十郎の名が再び響き渡ることはなかった。ただ一人、歴史の中に生き続けた初代金十郎を除いて。




Posted by 八木本宗平 at 23:07 Comments( 0 ) 井伊の赤備え

井伊の赤備え[4](彦根市金亀町・彦根城博物館)

2011年09月25日

彦根城博物館テーマ展 シリーズ 戦国 巻の4 「井伊の赤備え-朱と金の勇姿-」(リンク先:彦根城博物館当該Webページ)
既に展示自体は終了しましたが、手持ちの写真からテーマ展の様子をお伝えしようと思います。


過去三回は藩主達の甲冑を取り扱いましたので、ここからは井伊家家臣団の甲冑を紹介していくことにします。


朱漆塗紺糸威縫延胸取二枚胴具足(所用者:不明 製作時期:江戸初期)

彦根城博物館に伝わる家臣達の赤備えの中では最も古いとされる一品。所用者は伝わっていないが、部材の質感から井伊直政・井伊直孝の甲冑と同時期であると解説シートには記されていた。朱色はすっかり鮮やかさを失ってしまっているが、却ってこの甲冑の歴史を今に伝える風格を備えている。

この甲冑の見どころは以下の三点である。

一・家臣の赤備えの基本、天衝前立を備えた最初期の作である点
二・朱色の胴に紺・赤・綾の三色の威糸を用いて華美に仕立てた点
三・籠手の二の腕部分に小鰭(こびれ)を付属させた点

一は、井伊家が大大名へと移行する過程で甲冑に格式を求めた過渡期の作品として、意味を持つ事が理由である。二は、戦の道具である甲冑に、控えめながらも美しさや自己主張を求めた作風が、当時の武家社会や井伊家家臣団の様子を伝える資料として貴重な点である。


そして三の小鰭は、徐々に実戦以外の要素を多く含み始めた甲冑でありながらも、所用者が防御の面を意識していた事にとても意味を感じるのである。甲冑は、意外と関節部分ががら空きである。日本の甲冑、特に当世具足は動きやすさと防御を兼ね備えるためそんなデザインになっている。

通常、小鰭は肩の上や首周りを守るように作られている。これを二の腕にまで垂れ下がるように大きくした理由―単純に考えれば、少しでも軽量に攻撃を防ぐためのアイディアなのだろう。

二の腕を負傷しては、刀を持つのも不可能になる。これは関ヶ原合戦・烏頭坂追撃戦で負傷した井伊家の大将・井伊直政その人が家臣達の前で皮肉にも体現している。この甲冑が直政~直孝の甲冑と同時期に製作されたとすれば、この所用者はその事実を踏まえて異形の小鰭を取り付けたのではなかろうか、などと思うのである。

江戸中期以降に製作された甲冑とは一線を画する、実戦思考を盛り込んだ甲冑であると思う次第でした。



Posted by 八木本宗平 at 23:12 Comments( 0 ) 井伊の赤備え

井伊の赤備え[3](彦根市金亀町・彦根城博物館)

2011年09月05日

朱漆塗仏胴腰取三枚胴具足―伝井伊直滋所用(井伊直孝嫡男)

侍の世界では―といっても余程裕福な家に限るが―長男の節句の祝いに稚児鎧などと呼ばれる甲冑を作った。これは平時では祝いの意味で終わるが、戦乱期であれば嫡男にも武士としての自覚を育むものであっただろう。他の大名家はよく知らないが、少なくとも井伊家には確かに一点、明らかに稚児鎧と思われる甲冑が遺されている。

その所有者とされるのは、井伊直滋。井伊直孝の嫡男にして、藩主になることのなかった貴公子である。


井伊直滋は、直孝が彦根藩主になる以前、慶長17年(1612年)にさる女性との間に生まれた男児だという。そんな直滋だが幼少から幕府へ出仕し、17歳で従四位下侍従に任官したほどの男である。秀忠・家光に仕え、特に家光からは直孝を凌ぐ信頼があったという。その後も26歳で家光から幕閣の直孝に代わり藩政を裁決する命を受け、家老たちと共に彦根藩政を執った。

彼の人柄を示すエピソードか遺っている。当時の京都所司代・板倉周防守重宗のことを、家臣が無能呼ばわりした時直滋はこう答えたという。「周防守殿は、木曽山中の量り知れないヒノキの良材のような人物である。お主ごときが、彼の方を計り知れるものか―」と。大名としての見識を備えた直滋は、そのまま藩主として名を残すときっと誰もが思ったであろう。


仏胴というと、祖父に当たる直政が着用していた甲冑と同じ様式になる。しかし南蛮風のデザインの兜や、子供用というサイズの小ささにまた違った様相を見せる。例え子供用であっても赤備えの風格はある。赤備えには珍しく、後頭部に飾りを立てる角元が付けられている。


後頭部を守るフェンダー部分であるシコロがこの兜には残っていない。実戦用でないからか、それとも元から付けなかったのかのかはわからない。装飾として唐の頭が何箇所かに取り付けられているが、これは直孝の持分から移植されたのだろうか。
また、袖(そで)と呼ばれる肩の防具の最下部には、井伊家の家紋「橘」と共に桐の文様がある。桐=豊臣家とも想像しがちだが、よくわからない。一説に、直滋の異母弟井伊直寛の母が木下氏ともいうが、だとするとこの甲冑は直滋のものではなくなるのだろうか?


背面には合当理(がったり)と呼ばれる旗指物を指すパーツが遺されている。旗を挿した見栄えのための飾りなのか、井伊家の嫡男として旗を背負い戦えという父・直孝からのメッセージなのか、興味は尽きない。
また仏胴特有の一枚板を打ち出した胴のつくりは、背面にも現れている。右脇腹に蝶番のようなものが見えるが、脇腹だけ別パーツにして、前面の胴と紐で引き合わせるようにしてある。「三枚胴」と呼ぶように、前面・背面・右側面の三枚のパーツから構成されている。


籠手はシンプルな篠袖だが、草摺(くさずり)という腰回りのパーツの威糸は、袖同様非常に多い。実戦を考慮しない装飾性でもあるが、威糸は兜のシコロや袖などの連結部分においては敵に切られても他の威し糸で連結を保てるという利点があるので一概に悪いとも言えない。佩楯や臑当も完備しており、400年前の甲冑としてはほぼ装備が皆具している事も含めて貴重な一品である。


万治元年(1658年)、46歳の直滋は突如出家する。彦根藩領内の百済寺(旧愛東町・現東近江市)に隠遁する。この事件は未だに謎が多いが、実際は直孝が直滋を廃嫡したのが真相だそうである。その理由は派手な性格の直滋と質素が旨の直孝の衝突が絶えなかったとも、7年前に亡くなった家光から百万石のお墨付きを貰ったからとも、様々である。真相は闇の中だが、父直孝の死から二年後、直滋は寛文元年6月9日(1661年7月5日))に百済寺でこの世を去る。彼が継ぐはずだった彦根藩は異母弟で五男の井伊直澄が継ぐこととなる。


よく三代目で一族は傾く、と言われるし大坂の陣において豊臣方に就いた大名家の嫡男が廃嫡されるというケースもある。ましてや井伊家は徳川譜代の筆頭である。もし前述の百万石の話が事実であれば直孝としては感化できるはずがない。家光や直滋にその気がなくとも、No.2の井伊家が幕政を私物化したと譜代・外様大名に見られても不思議ではないからだ。

長男とは言え、自身の小身時代に授かった子供を嫡男に据えるというのはあまり聞く話ではない。特に直孝は側室の子と言うだけで徹底的に父直政から疎まれ実母さえ殺されている。その経験からも若くして授かった直滋を厳しくも可愛がったとも思う。
その嫡男が廃嫡か、自ら出家したかで自分の元から離れて行ってしまった事実は、直孝にとっては本心ではなかっただろう。だが、この事件があったからこそ彦根藩も、幕府筆頭の地位も井伊家は次の代へと引き継ぐことができたのもまた事実である。この後、彦根藩は目立った活躍こそ無いものの幕政の中核として幕末までその座を揺るぎ無いものとする―


この直滋の人生には、少し不思議な偶然がある。彼の正室は、かつて藩主を交代され分家を立てた伯父・井伊直勝の娘であることだ。廃嫡された分家の伯父の娘と、後に廃嫡されることとなる本家の嫡男が一つ屋根の下で暮らした事実が遺っている偶然―。この伯父・井伊直勝は直滋没後の翌年亡くなっている。異母弟や甥よりも長く生きた元彦根藩主には、何か神のいたずらさえ感じる。

また、直滋の出家後も付き従った御守役の梶与右衛門という人物の子孫が遺した「俊徳院殿御追善記」という記録集が末裔の方の手により現代語訳され発行されている。これは梶与右衛門が故郷に戻り亡くなった後、70数年後に孫の二人が彦根藩と百済寺に直滋の勘当を解き、霊廟を設けるよう働きかけた記録である。

藩の公式な歴史からは消えた直滋ではあったが、彼を偲ぶ人々の心は後の世にも継がれた。
そうした形で直滋の甲冑もまた、長きに渡り彦根城内に遺された―が、成人してからの甲冑は、遂に見つかっていない。




Posted by 八木本宗平 at 21:00 Comments( 0 ) 井伊の赤備え

井伊の赤備え[2](彦根市金亀町・彦根城博物館)

2011年09月04日

朱漆塗燻韋威縫延腰取二枚胴具足


井伊直孝は、江戸260年間の幕政の基礎と、徳川家筆頭としての井伊家を形作った人である。
本来は井伊直政の庶子として、父の死後は二代将軍徳川秀忠の幕臣として側に仕えた。
後に徳川家康より兄:直継に代わり彦根藩主に任命。七十歳でこの世を去るまで家康・秀忠・家光・家綱の四代に仕えた。

今回の企画展には展示されなかったが、父直政のものとも、または直孝のものとも言われる赤備えがある。
別サイトリンク)(リンク先;彦根城博物館
この直孝の甲冑は、そのデザインを引き継ぎつつ烈勢頬(れっせいほお)と呼ばれる面により印象を引き立たせている。


実はこの甲冑は、実戦で使われた形跡がないとされる。
たまに大坂冬・夏の陣で井伊直孝が着用した―とも言われるが、実際には他の鎧であり、現在は大阪府内のある神社に奉納されているという。


父・直政の甲冑が実戦仕様として威糸(おどしいと)を胴に殆ど用いなかったのに対し、直孝の甲冑には萌黄色の装飾がなされている。
また、現存する藩主の甲冑の中では唯一籠手の防具が筒状になっている。これもまた直孝公の甲冑のイメージを異なったものにしている。


彦根城博物館の展示ケースには、普段から藩主の甲冑を展示する専門のケースがある。直孝の甲冑はここに展示されていた。
そのため、背後や側面をよく見ることが出来るのだが、甲冑の背中の部分も見ることが出来る。
後の藩主達の甲冑には旗を立てるための受筒等のパーツがつくが、この甲冑には見られない。
藩主が旗を背負うのは当然敵味方へのアピールの意味もあるが、この甲冑にないのは実戦を意識したものだと思う(それだけ敵にも狙われる)


まだ井伊の赤備えが形式化される過渡期の一品として、一見イレギュラーにも思えるデザイン。
後の藩主達は他の甲冑のデザインを踏襲したのは、単に藩祖直政への憧れか、それとも―興味は尽きない。
もしくは後世、本来のパーツとは異なる組み合わせが、この甲冑に行われたのではないか?と思える。

井伊直孝という人は有名な豪徳寺の招き猫の逸話で知られるが、政治では父・直政ほどでないにせよ厳しい判断を下した話も少なくない。
だが、非情な面が多く見られた直政と異なり、直孝は根底では人情家とも取れるエピソードは数多い。
しかし、兄・直勝(旧名直継)との当主交代や、嫡男直滋の廃嫡といった家族関係の影は多い。


後世、井伊直孝の治世は歴代藩主達の基本となり、井伊家当主が幕政混乱時には大老になるという慣習も直孝の時代に生まれた。
そんな直孝は、彦根藩にとっては勇猛かつ強靭な「赤鬼」として語り継がれねばならなかった―その為、他の藩主が(一名を除き)用いなかった烈勢頬が後に付け足されたのではないか?などと勝手に想像している。

そんな井伊直孝の甲冑は、井伊の赤備えを代表する一品として彦根市の指定文化財に選ばれている。また、甲冑の専門誌や行政広報にもその姿をよく見受ける。
また、幕府筆頭の家柄であったことから映像作では「武家社会の象徴」として姿を見せることもある。映画「切腹」やリメイク作品「一命」でもその姿が出てきた。


写真は「一命」で使用された井伊の赤備えのレプリカである。映画での見栄えを意識してか少し黒ずんだ赤である。
兜についた白の毛髪は唐の頭と言われたヤクの毛を束ねたもので、各国の大名に幕府から与えられたものである。
前立の橘紋は実際の赤備えには見受けられないが、後の藩主の甲冑にも前立てをつけた例はいくつかある。(菖蒲・御幣などの立物ではあるが)

戦国最期の大合戦ともされる大坂の陣と泰平の世との狭間で生み出された井伊直孝の赤備え。
直孝の赤備えは故人の偉業と共に、明治維新まで彦根城天守で眠る事になる。



Posted by 八木本宗平 at 12:00 Comments( 0 ) 井伊の赤備え