天秤櫓特別展~甲冑でみる武将(おとこ)たちの関ヶ原~④
2011年09月21日
天秤櫓特別展~甲冑でみる武将(おとこ)たちの関ヶ原~(リンク先・彦根市観光ガイド当該Webサイト)
現在彦根城(国特別史跡・彦根市金亀町)城内天秤櫓で、先述した甲冑展が開催されている。
かつて羽柴秀吉が築城した長浜城にあったとされる、天秤櫓で文字通り所狭しと諸将の甲冑(複製・想像)が並んでいる。
合戦当時に関ヶ原に在陣・或いは各地で戦った武将の甲冑も展示されている。
※会場に展示されている甲冑は基本撮影・Web利用は可能ですが、商業利用は難く禁止されています。
※ついては当ブログに掲載した当該記事の画像の無断転載及び商業利用はお断りします。
※当ブログに掲載された当該記事の画像を無断転載・商業利用をなされた場合に発生した問題に関して、当ブログでは一切関与しません。
※甲冑の名称は公式のもの・非公式のものを含みます。

天衝脇立乱髪兜(石田三成)

名称不明(天衝前立阿古陀形兜?) (島左近)

名称不明(大谷吉継)

朱漆塗桶側胴具足(井伊直政)

黒塗伊予札黒糸素懸威二枚胴具足(徳川家康)
計十九領(内訳:東軍九領・西軍十領)の甲冑が展示されています。
当ブログでは、それぞれの甲冑の魅力を紹介しきれない部分もあります。
2011年11月6日(日曜日)まで企画展は開催していますので、ぜひ彦根に訪れた際は御覧ください。
現在彦根城(国特別史跡・彦根市金亀町)城内天秤櫓で、先述した甲冑展が開催されている。
かつて羽柴秀吉が築城した長浜城にあったとされる、天秤櫓で文字通り所狭しと諸将の甲冑(複製・想像)が並んでいる。
合戦当時に関ヶ原に在陣・或いは各地で戦った武将の甲冑も展示されている。
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※甲冑の名称は公式のもの・非公式のものを含みます。
天衝脇立乱髪兜(石田三成)
名称不明(天衝前立阿古陀形兜?) (島左近)
名称不明(大谷吉継)
朱漆塗桶側胴具足(井伊直政)
黒塗伊予札黒糸素懸威二枚胴具足(徳川家康)
計十九領(内訳:東軍九領・西軍十領)の甲冑が展示されています。
当ブログでは、それぞれの甲冑の魅力を紹介しきれない部分もあります。
2011年11月6日(日曜日)まで企画展は開催していますので、ぜひ彦根に訪れた際は御覧ください。
天秤櫓特別展~甲冑でみる武将(おとこ)たちの関ヶ原~③
2011年09月20日
天秤櫓特別展~甲冑でみる武将(おとこ)たちの関ヶ原~(リンク先・彦根市観光ガイド当該Webサイト)
現在彦根城(国特別史跡・彦根市金亀町)城内天秤櫓で、先述した甲冑展が開催されている。
かつて羽柴秀吉が築城した長浜城にあったとされる、天秤櫓で文字通り所狭しと諸将の甲冑(複製・想像)が並んでいる。
合戦当時に関ヶ原に在陣・或いは各地で戦った武将の甲冑も展示されている。
※会場に展示されている甲冑は基本撮影・Web利用は可能ですが、商業利用は難く禁止されています。
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名称不明(萌木糸威二枚胴具足?) (毛利輝元)

黒糸威二枚胴具足(榊原康政)

名称不明(色々威腹巻具足?) (島津義弘)

黒糸威二枚胴具足(本多忠勝)
現在彦根城(国特別史跡・彦根市金亀町)城内天秤櫓で、先述した甲冑展が開催されている。
かつて羽柴秀吉が築城した長浜城にあったとされる、天秤櫓で文字通り所狭しと諸将の甲冑(複製・想像)が並んでいる。
合戦当時に関ヶ原に在陣・或いは各地で戦った武将の甲冑も展示されている。
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名称不明(萌木糸威二枚胴具足?) (毛利輝元)
黒糸威二枚胴具足(榊原康政)
名称不明(色々威腹巻具足?) (島津義弘)
黒糸威二枚胴具足(本多忠勝)
天秤櫓特別展~甲冑でみる武将(おとこ)たちの関ヶ原~②
2011年09月18日
天秤櫓特別展~甲冑でみる武将(おとこ)たちの関ヶ原~(リンク先・彦根市観光ガイド当該Webサイト)
現在彦根城(国特別史跡・彦根市金亀町)城内天秤櫓で、先述した甲冑展が開催されている。
かつて羽柴秀吉が築城した長浜城にあったとされる、天秤櫓で文字通り所狭しと諸将の甲冑(複製・想像)が並んでいる。
合戦当時に関ヶ原に在陣・或いは各地で戦った武将の甲冑も展示されている。
※会場に展示されている甲冑は基本撮影・Web利用は可能ですが、商業利用は難く禁止されています。
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黒糸威横矧二枚胴具足(細川忠興)

浅葱糸威黒皺韋包板物二枚胴具足(上杉景勝)

縮革包菱綴桶側二枚胴具足及び大水牛脇立兜(福島正則)

黒漆塗馬革包仏二枚胴具足(真田昌幸)

黒糸縅胴丸具足及び銀箔押一の谷形兜(黒田長政)
現在彦根城(国特別史跡・彦根市金亀町)城内天秤櫓で、先述した甲冑展が開催されている。
かつて羽柴秀吉が築城した長浜城にあったとされる、天秤櫓で文字通り所狭しと諸将の甲冑(複製・想像)が並んでいる。
合戦当時に関ヶ原に在陣・或いは各地で戦った武将の甲冑も展示されている。
※会場に展示されている甲冑は基本撮影・Web利用は可能ですが、商業利用は難く禁止されています。
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黒糸威横矧二枚胴具足(細川忠興)
浅葱糸威黒皺韋包板物二枚胴具足(上杉景勝)
縮革包菱綴桶側二枚胴具足及び大水牛脇立兜(福島正則)
黒漆塗馬革包仏二枚胴具足(真田昌幸)
黒糸縅胴丸具足及び銀箔押一の谷形兜(黒田長政)
天秤櫓特別展~甲冑でみる武将(おとこ)たちの関ヶ原~①
2011年09月17日
天秤櫓特別展~甲冑でみる武将(おとこ)たちの関ヶ原~(リンク先・彦根市観光ガイド当該Webサイト)
現在彦根城(国特別史跡・彦根市金亀町)城内天秤櫓で、先述した甲冑展が開催されている。
かつて羽柴秀吉が築城した長浜城にあったとされる、天秤櫓で文字通り所狭しと諸将の甲冑(複製・想像)が並んでいる。
合戦当時に関ヶ原に在陣・或いは各地で戦った武将の甲冑も展示されている。
※会場に展示されている甲冑は基本撮影・Web利用は可能ですが、商業利用は難く禁止されています。
※ついては当ブログに掲載した当該記事の画像の無断転載及び商業利用はお断りします。
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※甲冑の名称は公式のもの・非公式のものを含みます。

鉄皺革包月輪文最上胴具足(立花宗茂)

唐冠大脇立兜具足(藤堂高虎)

金小札浅葱糸威二枚胴具足(直江兼続)

御幣後立具足(山内一豊)

鹿角横立朱塗具足(真田幸村)
現在彦根城(国特別史跡・彦根市金亀町)城内天秤櫓で、先述した甲冑展が開催されている。
かつて羽柴秀吉が築城した長浜城にあったとされる、天秤櫓で文字通り所狭しと諸将の甲冑(複製・想像)が並んでいる。
合戦当時に関ヶ原に在陣・或いは各地で戦った武将の甲冑も展示されている。
※会場に展示されている甲冑は基本撮影・Web利用は可能ですが、商業利用は難く禁止されています。
※ついては当ブログに掲載した当該記事の画像の無断転載及び商業利用はお断りします。
※当ブログに掲載された当該記事の画像を無断転載・商業利用をなされた場合に発生した問題に関して、当ブログでは一切関与しません。
※甲冑の名称は公式のもの・非公式のものを含みます。
鉄皺革包月輪文最上胴具足(立花宗茂)
唐冠大脇立兜具足(藤堂高虎)
金小札浅葱糸威二枚胴具足(直江兼続)
御幣後立具足(山内一豊)
鹿角横立朱塗具足(真田幸村)
井伊の赤備え[3](彦根市金亀町・彦根城博物館)
2011年09月05日
朱漆塗仏胴腰取三枚胴具足―伝井伊直滋所用(井伊直孝嫡男)
侍の世界では―といっても余程裕福な家に限るが―長男の節句の祝いに稚児鎧などと呼ばれる甲冑を作った。これは平時では祝いの意味で終わるが、戦乱期であれば嫡男にも武士としての自覚を育むものであっただろう。他の大名家はよく知らないが、少なくとも井伊家には確かに一点、明らかに稚児鎧と思われる甲冑が遺されている。
その所有者とされるのは、井伊直滋。井伊直孝の嫡男にして、藩主になることのなかった貴公子である。

井伊直滋は、直孝が彦根藩主になる以前、慶長17年(1612年)にさる女性との間に生まれた男児だという。そんな直滋だが幼少から幕府へ出仕し、17歳で従四位下侍従に任官したほどの男である。秀忠・家光に仕え、特に家光からは直孝を凌ぐ信頼があったという。その後も26歳で家光から幕閣の直孝に代わり藩政を裁決する命を受け、家老たちと共に彦根藩政を執った。
彼の人柄を示すエピソードか遺っている。当時の京都所司代・板倉周防守重宗のことを、家臣が無能呼ばわりした時直滋はこう答えたという。「周防守殿は、木曽山中の量り知れないヒノキの良材のような人物である。お主ごときが、彼の方を計り知れるものか―」と。大名としての見識を備えた直滋は、そのまま藩主として名を残すときっと誰もが思ったであろう。

仏胴というと、祖父に当たる直政が着用していた甲冑と同じ様式になる。しかし南蛮風のデザインの兜や、子供用というサイズの小ささにまた違った様相を見せる。例え子供用であっても赤備えの風格はある。赤備えには珍しく、後頭部に飾りを立てる角元が付けられている。

後頭部を守るフェンダー部分であるシコロがこの兜には残っていない。実戦用でないからか、それとも元から付けなかったのかのかはわからない。装飾として唐の頭が何箇所かに取り付けられているが、これは直孝の持分から移植されたのだろうか。
また、袖(そで)と呼ばれる肩の防具の最下部には、井伊家の家紋「橘」と共に桐の文様がある。桐=豊臣家とも想像しがちだが、よくわからない。一説に、直滋の異母弟井伊直寛の母が木下氏ともいうが、だとするとこの甲冑は直滋のものではなくなるのだろうか?

背面には合当理(がったり)と呼ばれる旗指物を指すパーツが遺されている。旗を挿した見栄えのための飾りなのか、井伊家の嫡男として旗を背負い戦えという父・直孝からのメッセージなのか、興味は尽きない。
また仏胴特有の一枚板を打ち出した胴のつくりは、背面にも現れている。右脇腹に蝶番のようなものが見えるが、脇腹だけ別パーツにして、前面の胴と紐で引き合わせるようにしてある。「三枚胴」と呼ぶように、前面・背面・右側面の三枚のパーツから構成されている。

籠手はシンプルな篠袖だが、草摺(くさずり)という腰回りのパーツの威糸は、袖同様非常に多い。実戦を考慮しない装飾性でもあるが、威糸は兜のシコロや袖などの連結部分においては敵に切られても他の威し糸で連結を保てるという利点があるので一概に悪いとも言えない。佩楯や臑当も完備しており、400年前の甲冑としてはほぼ装備が皆具している事も含めて貴重な一品である。

万治元年(1658年)、46歳の直滋は突如出家する。彦根藩領内の百済寺(旧愛東町・現東近江市)に隠遁する。この事件は未だに謎が多いが、実際は直孝が直滋を廃嫡したのが真相だそうである。その理由は派手な性格の直滋と質素が旨の直孝の衝突が絶えなかったとも、7年前に亡くなった家光から百万石のお墨付きを貰ったからとも、様々である。真相は闇の中だが、父直孝の死から二年後、直滋は寛文元年6月9日(1661年7月5日))に百済寺でこの世を去る。彼が継ぐはずだった彦根藩は異母弟で五男の井伊直澄が継ぐこととなる。

よく三代目で一族は傾く、と言われるし大坂の陣において豊臣方に就いた大名家の嫡男が廃嫡されるというケースもある。ましてや井伊家は徳川譜代の筆頭である。もし前述の百万石の話が事実であれば直孝としては感化できるはずがない。家光や直滋にその気がなくとも、No.2の井伊家が幕政を私物化したと譜代・外様大名に見られても不思議ではないからだ。
長男とは言え、自身の小身時代に授かった子供を嫡男に据えるというのはあまり聞く話ではない。特に直孝は側室の子と言うだけで徹底的に父直政から疎まれ実母さえ殺されている。その経験からも若くして授かった直滋を厳しくも可愛がったとも思う。
その嫡男が廃嫡か、自ら出家したかで自分の元から離れて行ってしまった事実は、直孝にとっては本心ではなかっただろう。だが、この事件があったからこそ彦根藩も、幕府筆頭の地位も井伊家は次の代へと引き継ぐことができたのもまた事実である。この後、彦根藩は目立った活躍こそ無いものの幕政の中核として幕末までその座を揺るぎ無いものとする―

この直滋の人生には、少し不思議な偶然がある。彼の正室は、かつて藩主を交代され分家を立てた伯父・井伊直勝の娘であることだ。廃嫡された分家の伯父の娘と、後に廃嫡されることとなる本家の嫡男が一つ屋根の下で暮らした事実が遺っている偶然―。この伯父・井伊直勝は直滋没後の翌年亡くなっている。異母弟や甥よりも長く生きた元彦根藩主には、何か神のいたずらさえ感じる。
また、直滋の出家後も付き従った御守役の梶与右衛門という人物の子孫が遺した「俊徳院殿御追善記」という記録集が末裔の方の手により現代語訳され発行されている。これは梶与右衛門が故郷に戻り亡くなった後、70数年後に孫の二人が彦根藩と百済寺に直滋の勘当を解き、霊廟を設けるよう働きかけた記録である。
藩の公式な歴史からは消えた直滋ではあったが、彼を偲ぶ人々の心は後の世にも継がれた。
そうした形で直滋の甲冑もまた、長きに渡り彦根城内に遺された―が、成人してからの甲冑は、遂に見つかっていない。
侍の世界では―といっても余程裕福な家に限るが―長男の節句の祝いに稚児鎧などと呼ばれる甲冑を作った。これは平時では祝いの意味で終わるが、戦乱期であれば嫡男にも武士としての自覚を育むものであっただろう。他の大名家はよく知らないが、少なくとも井伊家には確かに一点、明らかに稚児鎧と思われる甲冑が遺されている。
その所有者とされるのは、井伊直滋。井伊直孝の嫡男にして、藩主になることのなかった貴公子である。

井伊直滋は、直孝が彦根藩主になる以前、慶長17年(1612年)にさる女性との間に生まれた男児だという。そんな直滋だが幼少から幕府へ出仕し、17歳で従四位下侍従に任官したほどの男である。秀忠・家光に仕え、特に家光からは直孝を凌ぐ信頼があったという。その後も26歳で家光から幕閣の直孝に代わり藩政を裁決する命を受け、家老たちと共に彦根藩政を執った。
彼の人柄を示すエピソードか遺っている。当時の京都所司代・板倉周防守重宗のことを、家臣が無能呼ばわりした時直滋はこう答えたという。「周防守殿は、木曽山中の量り知れないヒノキの良材のような人物である。お主ごときが、彼の方を計り知れるものか―」と。大名としての見識を備えた直滋は、そのまま藩主として名を残すときっと誰もが思ったであろう。

仏胴というと、祖父に当たる直政が着用していた甲冑と同じ様式になる。しかし南蛮風のデザインの兜や、子供用というサイズの小ささにまた違った様相を見せる。例え子供用であっても赤備えの風格はある。赤備えには珍しく、後頭部に飾りを立てる角元が付けられている。

後頭部を守るフェンダー部分であるシコロがこの兜には残っていない。実戦用でないからか、それとも元から付けなかったのかのかはわからない。装飾として唐の頭が何箇所かに取り付けられているが、これは直孝の持分から移植されたのだろうか。
また、袖(そで)と呼ばれる肩の防具の最下部には、井伊家の家紋「橘」と共に桐の文様がある。桐=豊臣家とも想像しがちだが、よくわからない。一説に、直滋の異母弟井伊直寛の母が木下氏ともいうが、だとするとこの甲冑は直滋のものではなくなるのだろうか?

背面には合当理(がったり)と呼ばれる旗指物を指すパーツが遺されている。旗を挿した見栄えのための飾りなのか、井伊家の嫡男として旗を背負い戦えという父・直孝からのメッセージなのか、興味は尽きない。
また仏胴特有の一枚板を打ち出した胴のつくりは、背面にも現れている。右脇腹に蝶番のようなものが見えるが、脇腹だけ別パーツにして、前面の胴と紐で引き合わせるようにしてある。「三枚胴」と呼ぶように、前面・背面・右側面の三枚のパーツから構成されている。

籠手はシンプルな篠袖だが、草摺(くさずり)という腰回りのパーツの威糸は、袖同様非常に多い。実戦を考慮しない装飾性でもあるが、威糸は兜のシコロや袖などの連結部分においては敵に切られても他の威し糸で連結を保てるという利点があるので一概に悪いとも言えない。佩楯や臑当も完備しており、400年前の甲冑としてはほぼ装備が皆具している事も含めて貴重な一品である。

万治元年(1658年)、46歳の直滋は突如出家する。彦根藩領内の百済寺(旧愛東町・現東近江市)に隠遁する。この事件は未だに謎が多いが、実際は直孝が直滋を廃嫡したのが真相だそうである。その理由は派手な性格の直滋と質素が旨の直孝の衝突が絶えなかったとも、7年前に亡くなった家光から百万石のお墨付きを貰ったからとも、様々である。真相は闇の中だが、父直孝の死から二年後、直滋は寛文元年6月9日(1661年7月5日))に百済寺でこの世を去る。彼が継ぐはずだった彦根藩は異母弟で五男の井伊直澄が継ぐこととなる。

よく三代目で一族は傾く、と言われるし大坂の陣において豊臣方に就いた大名家の嫡男が廃嫡されるというケースもある。ましてや井伊家は徳川譜代の筆頭である。もし前述の百万石の話が事実であれば直孝としては感化できるはずがない。家光や直滋にその気がなくとも、No.2の井伊家が幕政を私物化したと譜代・外様大名に見られても不思議ではないからだ。
長男とは言え、自身の小身時代に授かった子供を嫡男に据えるというのはあまり聞く話ではない。特に直孝は側室の子と言うだけで徹底的に父直政から疎まれ実母さえ殺されている。その経験からも若くして授かった直滋を厳しくも可愛がったとも思う。
その嫡男が廃嫡か、自ら出家したかで自分の元から離れて行ってしまった事実は、直孝にとっては本心ではなかっただろう。だが、この事件があったからこそ彦根藩も、幕府筆頭の地位も井伊家は次の代へと引き継ぐことができたのもまた事実である。この後、彦根藩は目立った活躍こそ無いものの幕政の中核として幕末までその座を揺るぎ無いものとする―

この直滋の人生には、少し不思議な偶然がある。彼の正室は、かつて藩主を交代され分家を立てた伯父・井伊直勝の娘であることだ。廃嫡された分家の伯父の娘と、後に廃嫡されることとなる本家の嫡男が一つ屋根の下で暮らした事実が遺っている偶然―。この伯父・井伊直勝は直滋没後の翌年亡くなっている。異母弟や甥よりも長く生きた元彦根藩主には、何か神のいたずらさえ感じる。
また、直滋の出家後も付き従った御守役の梶与右衛門という人物の子孫が遺した「俊徳院殿御追善記」という記録集が末裔の方の手により現代語訳され発行されている。これは梶与右衛門が故郷に戻り亡くなった後、70数年後に孫の二人が彦根藩と百済寺に直滋の勘当を解き、霊廟を設けるよう働きかけた記録である。
藩の公式な歴史からは消えた直滋ではあったが、彼を偲ぶ人々の心は後の世にも継がれた。
そうした形で直滋の甲冑もまた、長きに渡り彦根城内に遺された―が、成人してからの甲冑は、遂に見つかっていない。