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井伊の赤備え[2](彦根市金亀町・彦根城博物館)

2011年09月04日

朱漆塗燻韋威縫延腰取二枚胴具足


井伊直孝は、江戸260年間の幕政の基礎と、徳川家筆頭としての井伊家を形作った人である。
本来は井伊直政の庶子として、父の死後は二代将軍徳川秀忠の幕臣として側に仕えた。
後に徳川家康より兄:直継に代わり彦根藩主に任命。七十歳でこの世を去るまで家康・秀忠・家光・家綱の四代に仕えた。

今回の企画展には展示されなかったが、父直政のものとも、または直孝のものとも言われる赤備えがある。
別サイトリンク)(リンク先;彦根城博物館
この直孝の甲冑は、そのデザインを引き継ぎつつ烈勢頬(れっせいほお)と呼ばれる面により印象を引き立たせている。


実はこの甲冑は、実戦で使われた形跡がないとされる。
たまに大坂冬・夏の陣で井伊直孝が着用した―とも言われるが、実際には他の鎧であり、現在は大阪府内のある神社に奉納されているという。


父・直政の甲冑が実戦仕様として威糸(おどしいと)を胴に殆ど用いなかったのに対し、直孝の甲冑には萌黄色の装飾がなされている。
また、現存する藩主の甲冑の中では唯一籠手の防具が筒状になっている。これもまた直孝公の甲冑のイメージを異なったものにしている。


彦根城博物館の展示ケースには、普段から藩主の甲冑を展示する専門のケースがある。直孝の甲冑はここに展示されていた。
そのため、背後や側面をよく見ることが出来るのだが、甲冑の背中の部分も見ることが出来る。
後の藩主達の甲冑には旗を立てるための受筒等のパーツがつくが、この甲冑には見られない。
藩主が旗を背負うのは当然敵味方へのアピールの意味もあるが、この甲冑にないのは実戦を意識したものだと思う(それだけ敵にも狙われる)


まだ井伊の赤備えが形式化される過渡期の一品として、一見イレギュラーにも思えるデザイン。
後の藩主達は他の甲冑のデザインを踏襲したのは、単に藩祖直政への憧れか、それとも―興味は尽きない。
もしくは後世、本来のパーツとは異なる組み合わせが、この甲冑に行われたのではないか?と思える。

井伊直孝という人は有名な豪徳寺の招き猫の逸話で知られるが、政治では父・直政ほどでないにせよ厳しい判断を下した話も少なくない。
だが、非情な面が多く見られた直政と異なり、直孝は根底では人情家とも取れるエピソードは数多い。
しかし、兄・直勝(旧名直継)との当主交代や、嫡男直滋の廃嫡といった家族関係の影は多い。


後世、井伊直孝の治世は歴代藩主達の基本となり、井伊家当主が幕政混乱時には大老になるという慣習も直孝の時代に生まれた。
そんな直孝は、彦根藩にとっては勇猛かつ強靭な「赤鬼」として語り継がれねばならなかった―その為、他の藩主が(一名を除き)用いなかった烈勢頬が後に付け足されたのではないか?などと勝手に想像している。

そんな井伊直孝の甲冑は、井伊の赤備えを代表する一品として彦根市の指定文化財に選ばれている。また、甲冑の専門誌や行政広報にもその姿をよく見受ける。
また、幕府筆頭の家柄であったことから映像作では「武家社会の象徴」として姿を見せることもある。映画「切腹」やリメイク作品「一命」でもその姿が出てきた。


写真は「一命」で使用された井伊の赤備えのレプリカである。映画での見栄えを意識してか少し黒ずんだ赤である。
兜についた白の毛髪は唐の頭と言われたヤクの毛を束ねたもので、各国の大名に幕府から与えられたものである。
前立の橘紋は実際の赤備えには見受けられないが、後の藩主の甲冑にも前立てをつけた例はいくつかある。(菖蒲・御幣などの立物ではあるが)

戦国最期の大合戦ともされる大坂の陣と泰平の世との狭間で生み出された井伊直孝の赤備え。
直孝の赤備えは故人の偉業と共に、明治維新まで彦根城天守で眠る事になる。



Posted by 八木本宗平 at 12:00 Comments( 0 ) 井伊の赤備え

井伊の赤備え[1](彦根市金亀町・彦根城博物館)

2011年08月31日




朱漆塗仏二枚胴具足[しゅうるしぬりほとけにまいどうぐそく](伝井伊直政所用)

井伊の赤備えと呼ばれるもので、彦根藩主初代・井伊直政が関ヶ原合戦の際に着用したとされる甲冑。
但し、藩主の甲冑に見られる天衝脇立(てんつきわきたて)や唐の頭(からのかしら)を取り付ける部分が兜にない点や、戦による損傷と思われる部分が見られない。
実際には関ヶ原合戦後の御替具足と呼ばれるスペアの甲冑ではないかという説もある。

頭形兜(ずなりかぶと)と呼ばれる大量生産用のヘルメットに、猿頬(さるほお)と呼ばれる顔面用の防具を備える。
一見すれば、とても一軍の大将が着用していた甲冑には見えない。しかし実戦では却って敵に特定されにくいという利点もある。


胴体は仏胴(ほとけどう)という、一枚の鉄板から打ち出す様式のものに習い表面が加工してある。
※よく似た形式に伊達政宗で有名な五枚胴(ごまいどう)という打ち出し鎧がある。

よく見ると、胴に薄いボーダーが見える。これは桶側胴(おけがわどう)という鉄板を重ねて作った鎧に漆を塗り込めた跡だ。
実際に仏胴を制作するにはコストと手間がかかる事や、戦乱記の大名は鎧は消耗品と割り切り一度使えば家臣に与えた。
また井伊直政は自ら戦うことで有名な大名だった。その為実用品として無駄な見栄えを嫌ったのがこの鎧ではなかろうか。


籠手(こて)という腕のパーツは篠籠手(しのごて)という。腕に合わせた布地に細長い鉄板を何枚も縫いつけてある。
手の甲を守るパーツとの間に鎖が縫いつけてあるが、こうすることで手首が動かし易くなる。
一見すると簡素だが、実戦思考の井伊直政にとっては使いやすいデザインをと考えたのだろう。


臑当(すねあて)という足のパーツもまた篠臑当(しのすねあて)という細長い鉄板を用いたもの。
本来、太ももを守るための佩楯(はいだて)というパーツが有るはずだが、この鎧には残されていなかった。
元からなかったのか、それとも事情があって廃棄されたのかは定かではない。実戦では騎乗しない時は外したとされる。

横の金色に赤い布地の飾りは、金箔押蝿取形馬印[きんぱくおしはえとりなりうまじるし]という。
これは一軍を率いることになった直政が、徳川家康から旗印を持つ許可を得て作ったものである。
旗印は、敵味方に大将の存在を知らせるものである。その為奇抜なデザインのものが多い。
蝿取という名前のように、敵の大将の首を獲れるよう願をかけたのかも知れない。

赤備えとは、元は武田信玄や北条家が自軍の中の精鋭部隊を鎧・旗・刀の鞘・槍を全て赤色で統一したものだ。
敵に対して一歩も引かず、おとぎ話に出てくる「赤鬼」を連想する姿は敵を震え上がらせ、味方を勇気づけたであろう。
武田家の大将に山県昌景という人物がおり、彼の率いた赤備えは度々敵将を脅かし、徳川家康も生命を危機に晒した。

武田家滅亡後、徳川家康は生き残った山県昌景の家臣や部下を登用し、再び赤備えを復活させることにした。
その大将に抜擢されたのが、僅か二十二歳の井伊直政であった。これは家康からの信頼が厚かった故の人事とされる。
だが、直政は十五歳で徳川家に仕官したばかりの若者だった。
それも他の重臣達の出身だった三河(愛知県東部)ではなく遠江(静岡県西部)生まれの外様だった。

ここには色々な理由が語られるが、あえて割愛する。興味のある人は井伊直政で検索して色々推察して欲しい。

赤備えを与えられた直政にとってはプレッシャーだったとされ、直政の突撃癖は家中の信頼獲得のためともされる。
だがその功績は凄まじく、小牧長久手・第一次上田合戦・小田原攻め・関ヶ原合戦といずれも活躍している。
武田時代の赤備えに所属した武将や、滅亡した今川家や北条家からスカウトされた武将の働きも目覚ましかった。

だが結果として、その功績の中で井伊直政は関ヶ原の合戦の最期に島津義弘軍掃討中に右腕を狙撃され、命取りになる。
慶長七年(1602)、鉄砲傷が元で佐和山城で四十一歳の若さで亡くなることとなる。


この甲冑は、後に彦根城が完成した後、他の直政が使ったとされる甲冑たちと共に彦根城の天守へと安置された。
だが、若くして亡くなった直政の気質や生き様は、息子の井伊直孝や後の藩主達に末代まで継がれる事になる。

260年間、虫干し以外では陽の目を浴びなかったこの鎧だが、現在はこうして一年に数度人々の前に姿を現す。
直政死後から410年経った今、直政の人柄や姿を静かにこの鎧は示しているように私には見えた。

井伊直政の詳細な解説は以下のリンクより。
孤高の赤鬼~井伊直政 其の壱~
孤高の赤鬼~井伊直政 其の弐~
孤高の赤鬼~井伊直政 其の参~
[いずれもリンク先・国宝・彦根城築城400年公式Web]



Posted by 八木本宗平 at 00:27 Comments( 2 ) 井伊の赤備え

井伊の赤備え[0](彦根市金亀町・彦根城博物館)

2011年08月29日



(写真:朱漆塗燻韋威縫延腰取二枚胴具足・伝井伊直孝所要)



テーマ展 シリーズ 戦国 巻の4 「井伊の赤備え-朱と金の勇姿-」が彦根城博物館で開催されています。
期間中に何度か足を運びましたが、圧巻のラインナップでした。

彦根城博物館は珍しく写真撮影ができる公立の博物館です。
そこで、写真を添えた上で赤備えを纏っていた藩主や藩士の話をぼちぼちと書いていこうと思います。




Posted by 八木本宗平 at 01:03 Comments( 0 ) 井伊の赤備え

ヴォーリズさんの足跡を辿る1.(彦根市日夏町「日夏里館」)

2011年08月28日

2011-08-07

元来、近江(滋賀)といえば…と問えば琵琶湖やひこにゃんという声が返って来ていた。
しかし、最近になるとある人物の名前が返ってくることが、ままある。

「すみません、ヴォーリズさんの建物はどちらでしょうか」と。

ヴォーリズとは、大正時代に米国から近江八幡市に渡ってきたキリスト教伝道師、そして後の建築家である。
ヴォーリズ記念館ウェブサイト
↑細かな説明は、こちらを参考にしていただければ幸いである。

このヴォーリズという人は、日本にキリスト教を広めるためYMCAの一員としてやってきた。しかし、彼はキリスト教を押し付けようとはしなかった。日本人の暮らしの中に、キリスト教の教示に基づいた健康的で文化的な生活を伝えようとした。

日本で伝道師として暮らすうちに、、彼は建築を通じて日本の生活様式をより良いものにしたいと考えた。だがそれは西洋建築の押し売りではなく、和と洋の優れた部分を合わせたものだった。そして、それはいつも建物を使う人の立場を考えたものであった。

前置きが長くなったが、今日は彦根市内で最近発見されたヴォーリズ建築「日夏里館」(ひかりかん)の一般公開があった。



この日夏里館という建物は、かつて日夏町役場兼農業組合事務所として昭和十年(1935)に建てられた。戦後すぐ彦根市と合併すると、その後は公民館と農協支所として半世紀近く住民に使われていた。
(写真は建物裏手)



その後所有権が移り、ここ数年は建物は封鎖されていた。老朽化もあり、取り壊すという話もあった。だが、ある町民の方が、町の歴史を見届けたこの建物の取り壊しを惜しんだ。そしてその方が買い上げ、現在は自治会や有志の方々が町のシンボルとして保存管理を行い始めた。
(写真は建物正面右手)



しかしこの建物を調べていくうちに、昭和初期にヴォーリズ建築事務所(現:一粒社ヴォーリズ建築事務所)に設計を依頼していたこと、そして当時の設計図が現存していることが判明した。設計はヴォーリズ建築事務所、建築士は小川祐三となっている。そこにヴォーリズ自身の名はない。同事務所が設立して30年近く、恐らく監修として後進の育成に乗り出した頃だと思われる。
(写真は建物正面左手。喫茶店が併設している。)



1Fは役場窓口や町長室、農業組合事務所などが併設していた。この階段は建物裏手になる。



ヴォーリズ建築は外観での見極めが難しい。だが、階段を見るとすぐに分かるという。
昭和初期の建物では珍しい緩やかな段差、踊り場と採光の窓、そして広い手すりだ。



他のヴォーリズ建築では、この手すりを滑り台にして遊んだという話をよく聞く。
それほどに緩やかな傾斜で、使う人の事を考えた設計になっている。



二階はかつては議場として、現在は集会場として使われおよそ百畳の広さだという。
私もヴォーリズ建築は好きだけど、これほど広い畳敷きは全国でもここだけだと思う。
天井も、当時のままの形を保っているという。



この日はNPO法人一粒の会理事の石井和浩先生の講演であった。自身が再生・活用に携わった同じヴォーリズ建築の事例を基に、今後の日夏里館の活用へのアドバイスや同建築関係者のネットワークの構築、ヴォーリズの提唱した建築の理念をお話しされた。



同じ彦根には国宝の彦根城が四百年も建ち続けているし、築百年を超す寺や古民家も少なくない。だが、他明治以降の建物は意外と少ない。戦災は彦根では皆無であり、耐久年数を超え取り壊されたものや、敗戦を経ての価値観の変化が理由だと思う。戦後、様々な公共施設が現代の価値観にあったものに建て替えられた事を見れば明らかである。

しかし、その「便利」のために、もっと大事な何かを捨て去るような気がする―

日本の歴史において、近江とは創造と破壊の歴史を重ねた国だと私は思う。東国・北国からの京への回廊として、様々な建築物や文化財が生まれては、権力者の都合で消えていった。今、その権力者とは誰なのだろうか。それは決して政治家や土地の有力者ではないと思う。

隣町の建物や風景がなくなっていったところで関係ない、新しいモノのほうが便利である―

本当に大事なものを追いやるのは、無関心な無名の市民一人ひとりではないだろうか。

そして、それを救うのは、愛着ある無名の市民一人ひとりではないだろうか。



近年、ヴォーリズ建築の価値や精神を見直す動きが全国各地で起こっている。かつて取り壊し問題に揺れた豊郷小学校も、改修を終えて町のシンボルとしての再スタートを歩み始めた。一方で、福島にあった教会建築や神戸の個人宅など、人知れず取り壊されていく建物も少なくない。

この日夏里館が、一日でも長く多くの人に愛されることを願いながら、ヴォーリズの言葉で締めたいと思う。

―住宅は本来住むためのものです。
  同様に言えば、学校は教育的計画のための家として考案された道具です。
  病院は病人の自然な回復力を助けるための機械です。
  商業建築は能率的な業務運営の中心です。
  このような建築を個人的な気まぐれや思いつきで着飾り、
  自己宣伝のための広告塔や博物館向きの作品のように心得て設計すべきではありません。

  建物の風格は人間の人格と同じく、その外観よりもむしろ内容にあります。―

                                 ( 「ヴォーリズ建築事務所 作品集」 序言より抜粋)



(かつての町役場の柱時計)



Posted by 八木本宗平 at 23:05 Comments( 0 ) W・M・ヴォーリズ

石田三成の故郷(3)(滋賀県長浜市石田町)

2011年08月28日

石田供養塔以外にも石田町には見どころがある。



石田町は、かつての横山城跡の南西麓にある。つまり姉川の合戦の最前線だったわけだ。
当時十歳の三成は、ここから東に離れた観音寺に坊主として預けられていたという。
父の正継や兄の正澄、家臣領民たちはいかなる思いで姉川の合戦に臨んだのだろう。



そんな妄想にふけりながら、日吉神社がある南麓から横山城へと登ろうとした。
五分後、次々と襲い来る浅井軍ならぬヤブ蚊の猛攻に負けて登頂は断念。
信長や秀吉、諸侯たちも蚊に悩まされたのだろうか。



建立時期はわからなかったが、後に豊臣秀吉の出世の基盤となった横山城跡に日吉神社。
途中見かけた看板に「サルにご注意」とあった。太閤さんの城下町も今は昔。



帰り道、幹線道路沿いにレトロな建物を発見。近江ベルベット社の工場とのことだが、実にモダン。
元来近江は絹上布の産地であったが、様々な様式で継承されていると思うと胸が熱い。



町の中心に戻って、ここは徳明寺という真宗大谷派のお寺である。



近江は元々本願寺門徒が多い。その関係か、本堂の大きさも下手な城の天守や御殿ほどはある。
破風や懸魚という、屋根の側面の飾りもとにかく大きい。

元亀年間の開基らしいが、織田~浅井の最前線で石山本願寺の寺院があったとは恐るべし…。

この本堂では、石田供養塔が発掘された年にあの吉川英治氏が石田三成の座談会を開かれたという。
その際に吉川氏の俳句が、石田会館の石碑として残されている。



様々な時代において、石田三成が語り継がれ、愛されてきたのだと思うとなにか不思議な気分になる。
太平洋戦争開戦の年。不安に満ちる世相の中で、こうした催しが行われていた事。
蝉しぐれ、とはいかないが蝉の声の響くこの風景を三成以前、三成以降の幾人が耳にしたろうか。

地元住民の方に聞くと、一週間ほど前に大河ドラマ「江」に出演中の萩原聖人氏が訪れたらしい。
三成を好演?中の氏だが、四ヶ月の大河でどこまで三成と一体化出来るのか…大まくりを期待したい。(2011年8月1日取材)



ところで町角では、このような武将の名を刻んだプレートをあちこちで見かけた。
なんでも町内に十二箇所あるらしいが、場所を記したマップは石田会館の中らしい。
日も暮れかけていたので引き返したが、今度行くときは全てをチェックしたいところである。



藩から県、村から町、郡から市、等と世の変化の中で、石田という地名は守られて来た。
地名も大事なもので、ここが”石田”でなければ、三成達は又異なる姓を名乗っていたかも知れない。
願わくば、末永く石田の地名が残らんことを願いつつ―また秋に散策に来たい。



Posted by 八木本宗平 at 22:51 Comments( 0 ) 石田三成