石田三成の故郷(2)(滋賀県長浜市石田町)
2011年08月28日
2011.08.01

私も近江の、それもムラの住民だけど、必ずといっていいほど大きなお寺と氏神様が離れて存在している。
石田町の南、町外れにある「八幡神社」。

社殿前の参道に自己主張するように生える大樹が魅力的。
この神社の裏手には有名な場所がある。
石田一族や家臣団の供養塔である。

徳川幕府によって、石田家に纏わるものは全て破却された―
関ヶ原の合戦後、石田三成の故郷である石田村への仕置は、石田家代々の墓石にまで及んだという。

しかし、石田家を偲んだ村の人々が、密かに八幡神社の社殿裏に墓石を埋めて隠した。
更に、この場所に立ち入ると腹が痛くなる等の風説を流し、三百年の長きに渡り墓石を守ってきた。

昭和十六年、石田三成公事跡顕彰会により墓石達が発掘される。340年振りに日の目を浴びる。
昭和四十八年、同顕彰会全国の有志により、現在地に墓石群を安置。以後四十年に渡り人々が慰霊に訪れる。
私自身は石田三成という人間は二極性をもった人物だと思っている。
一極は政治家としての石田三成。正直言ってこちらの面はどうしようもない男だと思う。

(写真:辞世の句碑「筑摩江」…佐和山城から見た筑摩神社(米原市)の夜景を詠んだ句とも)
天下は豊臣家と親藩だけで本気で回せるとすら考えていたのかもしれない。
義や友情の将というフレーズが三成の代名詞として飛び交うが、単に身内主義の官僚だったようにも聞こえる。
身内にすがるしか道がなかった― 三成とは、頼るものが居ないところへと進んでしまった男だ。
自身の理屈の下に、結果として一族郎党を滅ぼしてしまった男―三成の嫌いな点はここなのだ。
だが、もう一極の三成は「意地の男」だと思う。

(写真;残紅葉の歌碑。豊臣家や自身を、佐和山(笹尾山?)の散り残った紅葉に例えたとされる。)
徳川家康に対する決起という、後世からすれば「馬鹿なこと」をやらかした男―それが石田三成である。
だが三成をおいて、誰が他にそんな馬鹿なことをやらかせたのか。
エリート官僚としてのキャリア。
忍城での失態。
秀次事件での風説。
文禄・慶長の役講和による非難。
秀吉死後の奉行職からの転落。
関ヶ原での大博打。
渋柿の逸話で語られた諦めの悪さ。
程度の違いはあれ、男なら誰でも理解されない苦しみを味わったことがなかろうか。
なればこそ、自分を証明するために命を張る。負けて悔いなし。
笹尾山での三成は、こんな心境では無かったろうか。
過ぎたるは及ばざるが如し…とは家康の名言だが、理想に生き、理想に死んだ三成に憧れる部分も私にはある。
彼の豊臣家の行政官としての功績がなければ、日本の歴史はまた違うものになったかも知れない。
最期まで主家を、日本の将来を案じ生きようとした男を非難だけ…というのはちょっとできない。
主君や親しい諸将との逸話、後世の歴史が語る人柄。
何より未だに評価は二分されている事自体が、石田三成という人の深さを語っている。

そんな構成の評価に左右されながらも、町角には地元の人達による三成への愛着がある。
産湯の井戸が今もこうして町の中心に残っている。
徳川家が見逃して遺ったのか、はたまた町の人々が補修を重ねてきたのか…想像は尽きない。
何より毎年命日に、町が総出で三成や一族郎党の法要を行うのである。
石田三成と石田町の人々の”絆”は、たしかに今も繋がっていると思う。

私も近江の、それもムラの住民だけど、必ずといっていいほど大きなお寺と氏神様が離れて存在している。
石田町の南、町外れにある「八幡神社」。

社殿前の参道に自己主張するように生える大樹が魅力的。
この神社の裏手には有名な場所がある。
石田一族や家臣団の供養塔である。

徳川幕府によって、石田家に纏わるものは全て破却された―
関ヶ原の合戦後、石田三成の故郷である石田村への仕置は、石田家代々の墓石にまで及んだという。

しかし、石田家を偲んだ村の人々が、密かに八幡神社の社殿裏に墓石を埋めて隠した。
更に、この場所に立ち入ると腹が痛くなる等の風説を流し、三百年の長きに渡り墓石を守ってきた。

昭和十六年、石田三成公事跡顕彰会により墓石達が発掘される。340年振りに日の目を浴びる。
昭和四十八年、同顕彰会全国の有志により、現在地に墓石群を安置。以後四十年に渡り人々が慰霊に訪れる。
私自身は石田三成という人間は二極性をもった人物だと思っている。
一極は政治家としての石田三成。正直言ってこちらの面はどうしようもない男だと思う。

(写真:辞世の句碑「筑摩江」…佐和山城から見た筑摩神社(米原市)の夜景を詠んだ句とも)
天下は豊臣家と親藩だけで本気で回せるとすら考えていたのかもしれない。
義や友情の将というフレーズが三成の代名詞として飛び交うが、単に身内主義の官僚だったようにも聞こえる。
身内にすがるしか道がなかった― 三成とは、頼るものが居ないところへと進んでしまった男だ。
自身の理屈の下に、結果として一族郎党を滅ぼしてしまった男―三成の嫌いな点はここなのだ。
だが、もう一極の三成は「意地の男」だと思う。

(写真;残紅葉の歌碑。豊臣家や自身を、佐和山(笹尾山?)の散り残った紅葉に例えたとされる。)
徳川家康に対する決起という、後世からすれば「馬鹿なこと」をやらかした男―それが石田三成である。
だが三成をおいて、誰が他にそんな馬鹿なことをやらかせたのか。
エリート官僚としてのキャリア。
忍城での失態。
秀次事件での風説。
文禄・慶長の役講和による非難。
秀吉死後の奉行職からの転落。
関ヶ原での大博打。
渋柿の逸話で語られた諦めの悪さ。
程度の違いはあれ、男なら誰でも理解されない苦しみを味わったことがなかろうか。
なればこそ、自分を証明するために命を張る。負けて悔いなし。
笹尾山での三成は、こんな心境では無かったろうか。
過ぎたるは及ばざるが如し…とは家康の名言だが、理想に生き、理想に死んだ三成に憧れる部分も私にはある。
彼の豊臣家の行政官としての功績がなければ、日本の歴史はまた違うものになったかも知れない。
最期まで主家を、日本の将来を案じ生きようとした男を非難だけ…というのはちょっとできない。
主君や親しい諸将との逸話、後世の歴史が語る人柄。
何より未だに評価は二分されている事自体が、石田三成という人の深さを語っている。

そんな構成の評価に左右されながらも、町角には地元の人達による三成への愛着がある。
産湯の井戸が今もこうして町の中心に残っている。
徳川家が見逃して遺ったのか、はたまた町の人々が補修を重ねてきたのか…想像は尽きない。
何より毎年命日に、町が総出で三成や一族郎党の法要を行うのである。
石田三成と石田町の人々の”絆”は、たしかに今も繋がっていると思う。
Posted by
八木本宗平
at
22:29
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石田三成